愛してるという言葉を聞くたびにに胸があったかくなる、その感じをまさしく愛というのだろう。
一方エゴから成る愛も一つの愛の形ではあるが、そこには大きな違いがある。
あげる方ももらう方もだんだん苦しくなって、時には歪んでしまう。
つまり、幸せではなくなってしまう。
知らず知らずのうちに陶酔して浸ってしまうこともあるだろう(人生は時々役者を演るようなものだから)。
でも激しく消耗してしまうのも確かな事実。
やっぱり、シンプルに愛し愛されて心も体もあったまるのがいいよね。
性服欲を満たすのに愛を口にしたり
征服欲を満たすのに愛を利用したり
承認欲を満たすのに愛を乱用したり
飢餓感を満たすのに愛を叫んだり…
学びあいではなく、自分のアイデンティティを確立するのに、自分探しのためだけに、ただ愛を使うのは究極の哀しい自己愛で、それはまさに哀することに他ならない。
愛することは、魂を磨く修行に必要な最も大事なツール。
生きてく中で、楽しく笑い合える関係性はとても素晴らしい。
でも、例え、悲しく哀れで惨めでも自分が傷ついて涙する経験でしかわからないこともたくさんある、人として丸く円く成熟できる一つのきっかけになることも事実だとは思う。
梵我一如とは?
誰しもが根っこに在る大きな課題を誰かが簡単に教えてくれる、答えを差し出してくれるわけでは、決して、ないのです。甘えてはいけません。
あなたを愛して目の前にいてくれる人は、あなたの内なるものをわかりやすく目の前に現象として観せてくれる有難い存在なのです。
その人は、時にはあなたのために自ら業を背負ってくれて、あなたの己の内なる旅に付き合ってくれるかも?しれませんが、本来、それはあなたが独りでやるべき一番大事な人生の仕事なのですから。
今世、私たちはどれだけたくさんの経験を重ねてその人なりの深くて美しいものを生み出せるか。
音楽家なら音を
画家なら色を
何か人生をかけて成したいものがあればその世界の中でそのことを
複雑で繊細でその人にしか出来ない唯一無二のその人なりの仕事を成して魂の目的を叶えるために。
でも、そのつらい経験をして味わい尽くしたらもうやめましょう。
だって、その経験をしたあなたはもうたくさん自分を差し出して真っ向から勝負して学んだんだから。
時には、身も心もボロボロになって血を流したとしても負けたくない戦もあるでしょうが、勝ち負けにこだわる必要もないのです。
勝とうと思わなければあなたは永遠に負けることもないのですから。
どんなに傷ついたとしても、ただの現象。
生まれる前に自分で決めて選んだ、今世、やるべき経験の一つにしか過ぎないのです。
そして、決して、心苦しくて、辛くて、忘れられないのではないのです。
大切なことは、あなたが意思を持ってして心に置く、という事です。
これから先、いつか、あなたが素敵なあなた自身に出会うために。
その経験は、無理に無碍にしないでそっと心のどこかに置いときましょう。
心の真ん中にどーん!とあったその箱は、年月と共に小さくなったり、はじっこに追いやられたりするかも?しれませんが…
気がついて、そっと箱を開けた時には美しくて光輝くあなたのキラキラの素が飛び出してくるはず。
もし、何も入っていなかったら、きっとあなたはすでにクリアな状態で、きっとますます素敵に生まれ変わっているのでしょう。
そして、その瞬間、
「あんなこともあったなぁ」と少し甘酸っぱいような懐かしい気持ちからの内なる風を感じられたらいいですね。
これから先、いつかの日のために…あいについて考えてみました。
読んでいただいてありがとうございます。